大阪南港野鳥園のある現大阪市住之江区の海岸は、古くは木津川と大和川に囲まれた三角州にあり、住吉浦と呼ばれ万葉の昔からシギ・チドリなどの渡り鳥の宝庫・渡りの重要な拠点として知られてきました。 野鳥園が作られるまでの歩みを振りかえってみることにしたいと思います。

明治28年 大阪湾 最初の正式な測量による海図
南港の埋め立てがはじまる
1906年
(明治39年)
 住吉浦の埋め立て(現在の大阪市住之江区平林地区を含む)がはじまる。
1933年
(昭和8年)
 木津川河口沖の海の埋め立てがはじまり埋立地を南港町と名づける。
1941年
(昭和16年)
 第二次世界大戦で、埋め立て工事中断
戦時中、南港埋立地には、軍需木材集積地、高射砲陣地、火薬庫が設けられていた。
1942年
(昭和17年)
「住吉浦における繁殖鳥の研究」
桑田鉄也氏の調査 
1950年
(昭和25年)
元住吉浦に平林貯木場の建設はじまる。

1950-56年
(昭和25-31年)
南港埋立地(100ha)で鳥類調査
約230回にわたり、小林桂助氏により実施され、後に「大阪湾に渡来するシギ・チドリ類」として自費出版される。
1958年
(昭和33年
埋め立て工事再開
大阪南港開発造成事業として7月から着工
(アラビア石油コンビナート進出予定)
●「大阪湾に飛来するシギ・チドリ類」小林 桂助著 1956

 1950−56年の埋立地は、戦争中からの放置の為、地盤沈下で干潟や池ができ、野鳥の住みやすい環境であった。
    サンドポンプで埋め立て、石炭ガラを積み上げた乾燥草地にはセッカやヒバリが生息。低湿地にはシチメンソウや
  ヨシが茂り、カルガモ、バン、ヒクイナ、オオヨシキリ、ヨシゴイなどが繁殖。春と秋にはシギ・チドリ類が数多く
  渡来し、カモ類、トモエガモ、ヒドリガモ、シマアジ、コガモ、オナガガモなどの休息地ともなった。
干潟の保護と回復

 大阪市のような日本の大都市は、干潟のできる大きな川の河口付近に発達してきたために、遠浅の海岸が埋め立てられて、干潟がほとんどなくなり、水鳥、特に干潟に生活の場を持つシギやチドリは、長い日本列島を渡る時の主な休憩地を失ってしまいました。それでも、埋立地が作られる時に一時的にできる湿地や水たまりは、ほかに行き場のない彼等の休憩地となっていました。
 そんな野鳥たちの情況に危機感を持つ人達が、野鳥保護の立場から、干潟や湿地の保護とそれらの回復を訴えました。その結果、東京や名古屋などから、干潟や湿地の保護や回復が、少しずつ行われるようになってきました。大阪南港の野鳥園もそのひとつです。
どれも昔あった広い干潟に比べるとささやかなものですが、鳥たちにとっては貴重なものです。写真にはそのいくつかを紹介しています。自然の干潟や湿地は、長年の自然の営みの中で最も安定した地盤や、水条件を持つ形になっていますが、一部だけを保護したものや、回復させたものは、これらの自然の条件から切りはなされたり、人工的に作られたものです。そのため、鳥やほかの生き物にとって好ましい形と環境が、これからも保たれるかどうかにむずかしい問題が残っています。面積がせまいものでは、大型の鳥や、環境の変化に敏感な鳥が安心して休める場所にはなりにくいのです。
南港野鳥園のできるまで

 南港野鳥園があるところは、もともと水深数メートルの海でした。1905(明治38)年の大阪築港計画の地図と重ねてみると、昔の海岸からずいぶん沖にあることがわかります(図2)。港のうしろは、「・…・新田」という地名によって、ほとんどが干拓地の農地であったことがわかります。現在の南港はこのように、沖に向かって埋め立てられてきた土地です。
南港野鳥園のできるまで
野鳥園があるところは、現在の埋立地を囲うコンクリートの護岸ができ、1978年頃に近くの海底から、水といっしょに吸い込んで泥水のようになった土が、護岸の中へいっぱいに流し込まれました。これが水と分離して沈澱し、約2年かかって天日と風によって表面が乾き、人がやっと歩けるようになりました。
泥の表面が水面上に見え始めた頃
この土の表面にプラスチックの網を広げ、パイプから水といっしょに砂を流しながら表面にうすく敷きます。砂が40cmぐらいの厚さになったら、土をこの上にうすく何層にもわけて乗せていき、この土の垂さで始めに入れた下の軟らかい土から、水をしぼり出して土を固めます。このように手間をかけて砂や土を乗せていくのは、一度に片よって乗せると、ちょうどぬかるみに足を踏み込んだときのように、上に載せた重い土が、下の軟らかい土の中にめり込んでしまうからです。野鳥園の干潟部は、砂を敷いたままの状態です。
プラスチックネットの上に砂を敷く頃
1982年から三角形の西池が掘られ、周りの地形が今の形に作られ、また観察舎の建設と植樹が行われました。そして1983年9月17日には、野鳥園が開園しました。当時の小さい苗木も大きく育って、次第に林が出来上ってきています。 

観察舎の正面に見える三角形の西池は、始めから海水が入るような深さに掘られ、海水の出入りのためのコンクリートの大きなパイプが、護岸の下に埋められています。北池と南池は、当時池の底がまだ高く、溜っていた水は雨水でした。けれども池の底は年々沈下して、いまでは海水が入る干潟になりました。シギとチドリは、この北池に最もよく集まります。あらたに海水が出入りするようになったこの池は、面積も広く、エサになる底生生物がたくさんすむようになったからです。

また、観察舎の前の砂地も1年間に数cm程度沈下しているので、開園の頃に比べると、砂地の面積が減り、周りの湿地と北池の面積が増えました。この沈下によって、この下の土が固まっていきます。沈下は年とともに小さくなっていくことが、毎年の測量によって確かめられています。
建設中の展望塔
This site is supported by 
Copyright (c) 2003- Osaka-Nankou-Bird-Sanctuary. All Rights Reserved